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たのしい?

久保田成子 Viva Video!

Viva Video! 久保田成子展 | 展覧会 | 東京都現代美術館|MUSEUM OF CONTEMPORARY ART TOKYO

 

ヴィデオアートってあまりよく知らなかったけど、「ビデオ彫刻」って興味深かったし、小田原のどかさんも熱く紹介していたので会期ぎりぎりでむかう。

 

■ヴィデオアートってなに

☆ヴィデオアートは彼女の最後のパートナー、ナムジュン・パイク創始者の一人ということで、1960年代なかばからスタートしたらしい。

「ヴィデオのみを使用した、もしくはヴィデオを作品の一部において使用した芸術全般を指す。」とのこと。

 

そもそもの「ヴィデオと映画の違い」は、英語版wikiでは軽く指摘あり。

One of the key differences between video art and theatrical cinema is that video art does not necessarily rely on many of the conventions that define theatrical cinema. Video art may not employ the use of actors, may contain no dialogue, may have no discernible narrative or plot, or adhere to any of the other conventions that generally define motion pictures as entertainment. This distinction also distinguishes video art from cinema's subcategories such as avant garde cinema, short films, or experimental film.

 

久保田さん自身も、展示のキャプションでこの言及していた...はずなんだけど、きちんとメモし損ねてしまいうろ覚えメモ。↓↓すみません。

「映画はモンタージュ、撮影技法などでできるが、

 ビデオは、ポストプロダクションの妙や音と映像の融合でできる。さらには時間の流れを可塑的にする」

というようなことを言っていた。

 

「映画より自由な」といってしまうと語弊がありそうだが、ビデオは、映画より規範に囚われず、より個人的な映像を制作できるみたいだ。

(これまでは、DVDの前のビデオ、くらいの浅いイメージしかなかったのがアップデートされた。)

 

☆それって・・・身近でいうと、インスタのストーリーじゃん!と思ってしまった。

もちろんビデオカメラはずっと前からあったけど、ここ数年で、動画に対してもっと気楽に扱えるようになった。

ストーリーを見てる時の癒しは、今回のいくつかのビデオをみているときの癒しに似ていた。

 

それが立体(彫刻)とあわさって、ものすごい奥行きが出ているのだが、これはちょっとやそっとじゃ語りきれない。

 

 

☆ビデオアートは、コンピュータが普及しメディアアートが台頭する前のデジタル領域のアート。

デジタルというものに対しての原初的な記憶を呼び起こすようだ。

それはたとえば、デジタルのなかで人や自分がいることの感動や、個人的な記憶をあとから動画で見返したときの感動ともつながる。

その幽霊に疲れることもある2022年だが、そもそもは感動もあったじゃないかと。

 

☆展示のあと見たオンライントークで、笠原恵美子さんの言葉も印象的だった。(原文ママではないです。。。)

「ビデオアートやり始めた人は、彫刻出自の人も多かった。

巨大な西洋史が背後にある絵画ではできない文脈を探していた人が多かったし、

ビデオという立体的な箱を使い、モニターのあちらとこちらという世界を作品に取り入れることができるようになり、

そこに活路を見出した彫刻家もいた」

 

 

久保田成子さんの記憶に残ったもの

 

・「ビデオ・ポエム」

ポエムは、ギャグすぎにもエキセントリックすぎにも見えなかった。それでいて軽やかである。

やわらかいもののなかにかたいものが入っていた。

あれ、そうかくと、いつものことだな。

ビデオは、平面じゃなくてこの頃四角であった。立体であった。

それを見たいという欲求は性的欲求に似ている。

 

・「河」

ビデオってずっと残ってるわけじゃない。

写真よりも儚いかもしれない。見返さないし、たまっていくだけ。

そしてそこにうつる大量の記憶・記憶・今・今・今。

ゆらめく光のなかの映像。それはもう四角じゃなくて、ただの色。

色だけが残って、完全に消えるわけじゃなくて、あったな、って思う。

 

・「セクシャルヒーリング」

キャプションから見た。

女性セラピストのセクシャルなふるまいに戸惑いを隠さずに、それでいて、彼女たちの提案で、ビデオをとる勇気を持てたという成子さん。

わたしがもつセラピストのイメージとかけはなれたセラピストの主体性にわたしも驚きながら、それに対する成子さんのむきあい方も「頼れる」と思った。

うつしだされたパイクは、本当に胸を押しつけられてた。成子さんの文章は比喩じゃなかった。

隣には、パイクにより「成子はぼくの愛、ぼくのブッダ」と綴られた、謎の千手観音も描かれたラブリーな手紙。こういう手紙をかきたいとおもった。

 

 

かくれた次元 エドワード・ホール

 

倉敷の蟲文庫での出会い。

今に残る1970年の名著らしいけど、そのオーラがあった。

 

「それぞれの文化における空間認識のあり方を,日常行動,居住空間,美術,文学などのうちに表現されたものを通して研究する」意味の造語である「プロクセミクス」を扱い、生物学的にも人文学的にも、遠くから(世界全体の視点)も、近くから(友人のふるまい)もアプローチしてくれる、人類学者・エドワードホールによる本。

人と人との距離感覚が規定化されたり変わってしまったりするコロナ時代と連関して、再注目される場面も少なくないようだ。

以下みすず書房HPから。


本書は、人間の生存やコミュニケーション・建築・都市計画といった今日的課項とふかく結びついている“空間”利用の視点から人間と文化のかくれた構造を捉え、大量のしかも急速に変化する情報を、ひとつの統合へと導く指標を提供するものである。

 

ホールは、二つのアプローチを試みる。一つは生物学的な面からである。視覚・聴覚・嗅覚・筋覚・温覚の空間に対する鋭敏な反応。混みあいのストレスから自殺的行為や共食いといった異常な行動にかられるシカやネズミの例をあげ、空間が生物にとっていかに重要な意味をもつかを示す。人間と他の動物との裂け目は、人びとの考えているほど大きくはない。われわれは、人間の人間たるところがその動物的本性に根ざしていることを忘れがちである。

 

もう一つは文化へのアプローチである。英米人・フランス人・ドイツ人・アラブ人・日本人などの、私的・公的な空間への知覚に関して多くの興味ぶかい観察を示し、体験の構造がそれぞれの文化にふかく型どられ、微妙に異なる意味をもつことを示す。それはまた疎外や誤解の源でもあるのだ。
このユニークな把握は、人間に人間を紹介しなおす大きな助けとなり、急速に自然にとってかわり新しい文化的次元を創り出しつつあるわれわれに、新鮮な刺激と示唆をあたえてやまない。

 

本書はとてつもなく広範に、空間における「かくれた次元」を語っているので、気になったところをちょこちょこと。

 

■生物学的なアプローチで驚いたのは、過密を意味する「混み合い」状態にネズミの集団が陥ったときも、過度なストレスを受けるということだ。

その具体的な結果が衝撃だった。

オスが攻撃的になり、性行為を強要したり、相手(老若男女)を選ばなくなったり、巣をつくる役割を持つメスがうまく働けなくなり赤ちゃんが死んでいったりするという。さらに驚いたのが、妊婦のメスネズミは夫じゃないオスのにおいを嗅いだだけで体調が悪くなるが、過密によりこれがよく起きるということ。

失礼だが、ネズミでさえこんなに繊細なんだ!

あと、人間はネズミほど嗅覚が発達してないけど、妊婦さん(女)はとてもデリケートで、かつ、空間的な守りがどれほど重要か想起させられた。

 

■人間はあらゆる感覚を使って空間/相手の感情を読み取っている。

・視覚体験の言語化がとても興味深い。網膜に写る像「visual field」と、人間が視るもの「visual world」は異なる。(by.ギブズン)

後者は、空間/筋覚など総合して構築する(騙し絵に気づく瞬間を思い出す)ので、

結局「視る」ことは「話す」こと同様に、脳みそ各部を駆使してやっと達成できる能動的な行いだ。

→ぼんやり思ってた下記2つのことを確信する。

①視ることについて、写真じゃなくて、現地にいったり実物と対峙したりすることがいかに大事か。

そのときにどんなvisual worldを自分のなかで立ち上げるかが、その人が視ることである。

②visual fieldでさえ人によって若干のちがいはあると思うので、visual worldが隣人と同じはずがない。

美術館で私語厳禁という場所が日本にはまだあるが、本当に信じられない。

もちろん美術をみたときのvisual worldをすべて言語化するなんて不可能だが、新しいものの見方のひとつである隣人のvisual worldを知るチャンスなのに、その機会を奪うほど愚かなことはあるのか。

 

・視覚についてもうひとつ。視野の中心の方が色彩感覚は強いが、端のほうが運動の知覚が誇張されるという。

→確かに、視野の外に思えても、誰かの視線がこちらに動くとすぐ気づくのはこの影響か。

 

・視覚は、これ以外にもギブソンの遠近感を導く諸要素など様々なアプローチから解説してくれているが、これと比べて、嗅覚については科学的なアプローチがまったく少ない。

特に西欧社会(≒日本社会)では、嗅覚の使用は、親密な人と関わるときに感じるものなどかなり限定されていて、「より呪術的なもの」みたいな言い方さえされちゃってる。

昨今のコロナ社会で一番奪われた感覚のひとつは嗅覚だと思い、ふとそれによって失われたことを考えると、季節の変化、雨やかぜのにおいなど、人ではなく環境・自然に関連するものばかり。

やはり社会的な対人場面ではほとんど嗅覚を使っていないなと実感する。

 

■私的/公的な空間(距離)

 

・「密接距離」(愛撫あるいは暴力など)、「個体距離」(個人を感じられる距離)、「社会距離」(ある程度離れてて隠れようと思えば隠れられる距離)、「公衆距離」(演説など)といったその状況に応じて、ある一定の距離があり、文化によってその距離感がだいぶかわる、というのは「だよね」という感じなんだけど。

肖像画をかく際に適した距離」があるというのに目から鱗だった。

4〜8フィートこそ、モデルの身体を理解するのに遠すぎず、遠近法的に位置づけるのに困難が生じない。

それでいてモデルと親密さと気楽さを共有しつつ、モデルの心が際立ちすぎない、というモーリスグローサーの1963年の言葉があるそうだ。

※彫刻を作るときはそれより近づく、というのも興味深い。触感を視る必要がある彫刻。

→芸術や文学においても「距離」は必ず意図を伴う。

肖像画はそれが一定とされるようだけど、それをおしたりひいたりずらしたりすることである種の感慨をもたらす芸術作品は、枚挙にいとまがない。

そういったすぐれた作品は、そのときの視覚だけでなく、筋覚や温覚を脳みそに思い起こさせ、それが感慨となって心に表れている気がする。

そしてその感慨(視覚や筋覚や温覚がフルに総合されたもの)って、日常の空間のなかでわたしたちが感じてることでもある。

 

・自分の部屋を持つこと持たないこと

古い本だし、本書の「ナントカ人あるある」は、人種のレッテル貼りにもなりかなねいから、「へー、そういうこともあるんだ」と話半分に聞いてるんだけど、それによると、幼少期自室をもたないイギリス人と、必ず自室を持つアメリカ人が対比されてる。自室をもたないイギリス人が自分一人の時間をもちたいときはどうするかというと「話しかけないで」オーラを出す一方、アメリカ人は自室へ帰るという。この違いにより、両者はお互いをどう解釈してよいかわからずしばしば摩擦がおきるとかなんとか。

 

それで自分のこれまでのことを考えてた。私は部屋を持たないで成長したので、これにそうとイギリス人タイプ。基本的にどこでも自分の仕事や勉強をできる。でも、一人になりたいときは、その場で悶々と「オーラを出す」よりかは、高円寺へいったり、マックや自習室へいってたなあ。家族は「距離の侵害」とかを考えないので、公共空間のほうがゾーニングしやすいのよね。それにずっと無自覚で過ごしてきたけど、仕事を始めて会社にデスクを持つようになったら、集中して机にむかう空間だからこそできることに気づいた。そこで、親が使わなくなった書斎を改造し、本棚をたて、そこに空間をもつことにした。その空間ができてから、変わったことがいくつもある。ただ、それをはじめた当初、自分がリビングにいるときと書斎にいるときで2つの人格を持っていることに気づいた。そして、もう少し同じ人格で生活したほうがいいんじゃないかと思い、自らを少しだがチューニングした自覚がある。

父親は逆に、書斎からリビングという家族的公共空間へ出ていった。仕事をしながら家庭のこともする事情がきっかけだと思うが、その2つの側面を同時に進めるのは、精神的なところで、その2つをなんらか近づけることが必要だったと思う。

 

そして現在は実家よりかなり小さい家で2人で過ごしていて、ほぼ完全リモートのため仕事/生活が同居しているが、ほとんど問題なく運用されている。また、部屋で区切れなくてもゾーニングのルールが様々ある。「お互い、仕事のときと違う椅子で夕飯を食べる」「片方が仕事してるときは昼食はガラスの低いテーブルで食べる」(食べることばっかりだな...)、「リラックスタイムには近づかない」など...。

 

こう振り返ると、自分の部屋を持つことで変わることは確実にあるのだが、今みたいにひとつの部屋のなかでも細かくゾーニングすれば混乱せず様々な事を運用できる。もちろん、それには同居人と共通認識があり、また、生活時間のルーティンが奇跡的に似通っているからだと思う。ゾーニング感覚と自分のチューニングは、本能的なところと結びついてるといっても過言でないけど、その点かなり気を使って生活を組み立てる自覚がある。

 

 

・文化的差異があるものを混ぜると破滅が起きる可能性があるらしい。

「混み合い」がおきているネズミの集団に、異種のネズミをまぜると一気にストレスがたまるらしい。これは人間も同じ。つまり。

「異なる文化を持つ人々が、狭い範囲のなかで集中して接触する危険性」は様々な意味で忘れたらいけないと思う。

最近やたらめったら「異文化交流」という言葉が叫ばれるが、これは自分の文化がいわゆる安全な場所にある(と思ってる)人しか言えない。

「違うこと」というのはそもそもめちゃくちゃストレスなんだ。

その人がほっとできる空間がなければ、「じゃあ自分と違うものをみてみよう」という気も起きない。

本書は、これが都市計画の話につながっていくが、いろんな単位・尺度で考えられるべきだと思う。

ひらやすみ 真造圭伍

東京の西側のかおりを充満させていて、おうちが恋しいなあ。

いわゆる商店街のほかにも、四文屋、青梅街道あたりとか、

春の夜の新歓が終わったあと、夜明け近くまで歩く視界、ぎゅーんとくる。

んだけど、押し付けがましくないのは、西側も風景として主張しすぎてないし、大学生だけじゃなくて28歳の時間でもあるから、なんというか、フラットにみれるのかもしれない。

そこまで深入りしてこない。

忙しい時間、のんびりした時間を同時に描いてるのも、フラットにだよね。

これはいわゆる東京的?

たしかに東京のこういうとこ好き、

なんて書き始めると大きなこと言っちゃうんだけど、読んでる時は、ふたりとかおばあちゃんの行動に、ガハハとか、カワイーとか、そんなこと言って楽しんでる。

 

家に住むきっかけになったおばあちゃんの話から、

自分がこの家にすむきっかけになったある人を思い出す。

わたしは、その人と会ったことがないけれど。

 

 

冷血/カポーティ

働きながらこれを読むのは大変苦労した。まず夜読むと確実に眠れないし次の日仕事のやる気を失うので、お日様が出てる時間しか読まないことに決めていた。そのため、読み切るのに3週間くらいかかったけど、その間冷血のことを思い出しては心にずっしりと鉛にようなものがあった。

ただ、ペリーとディックがどうなっていくのかを追わずにはいられず、いちど本を手にすると時間が許す限りページを次つぎめくってしまうのだ。

 

事件の夜の描写と、逮捕されて二人が追い詰められていくところの二箇所でふつうに気持ち悪くなったり、頭イカれたりした。

こう思うと、ただ人が辛い思いをするのが辛いという、なんというか主義もへったくれもないなと思うんだけど、そういうレベルでしか考えられなくなった。引きずり込まれる。近くの人に感じる。

「ノンフィクション・ノベル」だから、全部が全部とおもっちゃいけないんだけど、事実を語り直すことがもうそのときフィクションだとしたら、こういう形式にしてもらえると、入りやすくはある。それゆえの大反響と危険さを思う。

 

ペリーが捕まってから夢に見てた「大きな鳥」がやってくる描写がなんだか忘れられない。

欲望の資本主義2022メモ

 

 

GDPは世界的にはのびてるものの、成長疲れの世の中。このままでは資源がつきてしまうし。

 

・ドーナツ経済学をはじめ、これからのキーワードは「繁栄」。

 →「繁栄」って、むかしの時代の、とある村とかって感じがする。つまり、小さいコミュニティのイメージがあったなとふとおもった。

 

・コロナのあとも、右肩上がりの景気だが、全員が「このまま上がる」と信じた瞬間に下落するはず。

 ※リーマンショックのときを背景に、今回のコロナではめちゃめちゃFRBが手を出してるとのこと。

 

・投資に関心が高まる若者。

 →大学の有志の会、興味深い。

大学のときなんてまったくお金に興味がなかった。

今思えばまったく、自分の未来が将来につづいてるとは思えなかったからだな。

ようやく思えるようになった今、自分がサラリーと年金だけで食えてけるのか不安というの、まったく同じ気持ち。

 

GDP伸び率が姉妹な日本とイタリアに笑った。

 

 

 

鋼の錬金術師 RETURNS(20周年記念原画展)

 

池袋サンシャインシティってなんであんな、ばちぼこ駅から遠いんだろう。展示につくまで一苦労。たどりついた桃源郷

 

空間に入った瞬間に、鋼ワールドへのワープスイッチをおされる。来場者層は自分と同世代〜ちょっと上という感じがする。

周りと同じように、原画の目の前にたって頭から湯気を出し、前がつまってても足が棒になっても、満員電車的なストレスは一才なしに、呆然と目の前にある絵と、後ろから聞こえてくるメリッサで脳みそを溶かす感じは、軽くドラッグに近く、健康的なものからほぼ遠いと思う。外界を遮断して目の前の紙切れに心動かされ、ニヤニヤし、早口で思ったことをまくしたてるのは、いわゆるオタク的な行いなんだろうが、これはほとんどトリップの際の生理現象。渚と一緒にひとっとびしながらかれこれ3時間、の展示。(カロリー消費えげつない)

 

今回、この作品って自分にとってなんだろうと思うと、「自分の人生とはパラレルの、自分も生きたような気がする人生」となっている。

どの立場で生きたんだよって感じだが、この人生を自分のなかで無意識に咀嚼し続けて(現実の方を)生きている。

リアルタイムで追っていたのは12〜15歳のたった3年といえばそうなんだけど、ものの考え方が形成されるこの時期に、鋼に会ってなかったらもっと卑屈な人間になっていたなと思うと恐ろしい。

主人公ふたりのちょっとダークで軽やかな振る舞い&最強のバディという入口に惹かれ、最終的には、基本的な筋は通しつつ明るい少年漫画でラストまで描いてくれて本当に感謝してる。

 

そんな感じで音声ガイド聞いてると、ファン目線というより、「あのときこうだったよねー」とキャラクターと一緒に、iPhoneのカメラロール見ながら振り返るといった感じ(実際そういう演出になっていたし)。

カメラロールにのってるのが原画なんだから、贅沢だ。牛さんも、「実家に帰る感じ」といってたけど、まさにそう。実家の宴会。心の故郷すぎて、帰りすぎちゃうともはやよくないんだけど、実家に4年に一回帰っても、まあいいでしょう。。。人生いろいろあるなかで、少しは帰らせてくれ。

 

今回の帰省で一番いろいろ感じたのは、意外にも大佐メインのシーン。

対ラスト、ハボックへの激励、対エンヴィなどなど。

ピンチのとき、普段は見せない自分のなかで燃えてるものを、外に出すさまざまな瞬間。

大佐みたいな難しい立場に、以前より感情移入してたのかもしれんな...わたし、まだそんななにも背負ってないのにな〜。どうしたもんだ。

感情表現が豊かなのはウィンリィとされてるけど、鋼のキャラは結局みんな、自分の感情とかなりしっかり向き合って嘘をつかないで前進してるのが良いよね。

 

今回グッズが可愛くてよかった!

またの帰省を楽しみにしています。