tanOSHI

たのしい?

ホットロード 紡木たく

マンガミーで全巻無料だったので漫画始め。

4巻一気に読んじゃった。

 

暴走族のことかいてて物語の現場はとっても騒々しいはずなのに、ぼんやりとした最低限の儚い線で描かれる情景はなんだか夢のようで、思春期のとき特有の、外界と自己の接点がぼやけていて全てにもやがかかって見えるような印象がそのまま写し出されているようだ。なんていうんだろう、背景はあまり描き込まれていないのに、この漫画の表紙みたいな、背景含めその情景全体がメインで描かれてる感じがする不思議な、、とても不思議な。あー、テールランプの明かり、綺麗だったんだろうなぁと説得されちゃう。

人物の表情も基本さらっとかかれているんだけど、大事なところでは、ハルヤマの小生意気な表情がとても繊細に美しく描かれていて、この印象付けたいがためにそれまではここまで力入れて描いてないのかもと思っちゃうほど。すごく余裕を感じて、あぁ上手いな、、と思う。電子じゃなくて紙で読みたくなった!

 

ヤンチャな男に憧れる女の子、という少女漫画フォーマットありつつ、不良をテーマにしつつ、心理描写は極めて繊細な感じ、確かに見たことなくてすごいのかも。

と思いつつ、こういうある種「わかりやすいイニシエーション」は時代だなぁと思ってしまい、上記のような絵のリズムを中心に楽しんで読みましたとさ。

 

 

小早川秋聲@東京ステーションギャラリー(2021年11月)

 

 

とっても久しぶりな友だち2人と。

 

入った瞬間からその幅広い画風や、おじさんの絵の表情の愛らしさに興奮し、きゃあきゃあ言っていたら、「喋らないでください」と怒られてしまう。

喋るの自体が禁止なのは少し驚いてしまったが、確かに少し声が高かったのは反省し、再びゆっくりとみる。

 

幼い頃から画家を目指し、基礎をしっかり確立していた画家ということだが、色彩や画材、テーマの豊かさに、すごく柔軟に絵を楽しんでる感じがしてとてもワクワクした。

特に、先に話した「微笑」や「薫風」のおじいさんの表情に癒され、

ポスターにもなっている「愷陣」(戦地から故郷に戻った兵士は讃えられるのに、ともに戦火を潜り抜けた軍馬は埃まみれのままでいる、村人がそんな軍馬を花で飾り労った漢詩に着想を受けているという)の馬の重量感と装飾品の煌びやかさの対比に圧倒され、

旅の先々で描いたポスターは、ギリシア、イタリア、トルコなどの風景を、驚きながらも日本人のフィルターで好きなところを見つけてる感じがよく伝わって、可愛らしく新鮮に思った。

とまあ、どれも親密に感じながら、ここまでいろんな感情を引き出される展示はなかなかない気がする。

 

さらにフィーチャーされていたのは「國之楯」をはじめとする戦争画だったが、とても不思議な気持ちになった。

すごい感覚的な話で恐縮なのだが、なんというか、戦争前までの多彩な絵を見ていて、この小早川さんという人はすごくまっすぐな人で、自分の目でみた新しいものの良いところを出すのが上手なんだなあと思ったんだけど、戦争でも多分それを実践しようとしている感じがして、胸がぎゅっとなった。それは確か「御旗」をみたときにうけた印象。まだ、小早川さんがいる気がする。でも、「國之楯」ではなんか小早川さんがいなくて、戦争の胸元にとびこんでいったために、戦争にぱくっと食べられてしまい、その深いふかいところを描かされてしまったという感を受けた。なので、軍部が公開を禁止した「國之楯」は、とても怖いんだけど、すごく惹き込まれる絵で、ますます恐ろしかった。これは確かに、なにかを確実に感じる絵なので、語られていくべきだと思う。

 

戦後の絵は、良いところもあったけど、以前の生気がないように感じた。絵のサイズもこれまでより小さくなっている。

胸の内で涙が出た。

しっかり自分の好きなことをみつけて、環境にも恵まれ、機会を無駄にせず、新しいものを見ようとし、幅の広い、豊かな色彩の絵を描いていた人が、戦争中には茶や青、黒といった絵しか描かなくなり、その均質化のトンネルを抜けた先の絵を見て。

戦争がなかったら、この人はどんな絵を描き続けていたんだろうと、しんみりした気持ちで、東京駅を出た。

【演劇】アルトゥロ・ウイの興隆@KAAT(2021年11月)

珍しく靖志くんに誘われて行った演劇。

お話は以下参照。また、ネタバレあり。

 

 

ヒトラー一党独裁へ猛進していく様をアメリカのギャング(フィクションの人物である、アルトゥロ・ウイ)にみたてて描いたこのお話。

なんと、ブレヒトは1941年から書き始めたという。その洞察力にも精神にも驚く。あの情勢を、当時リアルタイムで俯瞰してこんなふうに昇華をしてた人がいたとは少し心強い。この演劇をふまえると、当時、見るひとから見れば「こういうヤバイことである」のは明白だったのに関わらず、国がその方向へ進んでしまったんだろう。しかしこれをブレヒトが出力するには、ヨーロッパからアメリカへ高跳びしていたという現場との物理的距離も非常に重要だったのだろうと想像する。

 

覚えてるのはウイを演じる草薙くんの輝き。少々舌ったらずで細身の草彅剛がこの役なんだ?、と最初疑問に思っていたが、オーサカモノレールのジェームズブラウン楽曲を背に踊り始めたら最後、きらきらと舞い、周りの熱気を面白い勢いで吸収していく渦巻きの中心でしかなかった。さすが一流アイドル。

 

ラストシーンはウイが独裁を極めて華やかにダンスをする。その際の印象的な2点。

 

・観客はギャングがおさめる街の民にみたてられ、「ウイに賛成の人」と手を挙げさせる。草薙さんファンの人が嬉々としてちらほら手を挙げるも、その数はまだ少ない。次の瞬間、大きな銃声がなる。もう一度「ウイに賛成の人」という質問がされると、さっきの2倍くらいの人々が手を挙げる。なんとまあ。

 

・草薙くんファンの人々が目を輝かせ手をたたき盛り上げる様子は、ライブさながらだ。まさに独裁者が生み出す熱狂。「2つのアイドル」が奇しくも重なる。

本編が終わると、おりてきた幕をスクリーンに映し出されるのは下記の言葉。

「熱狂する大衆のみが操縦可能である。政策実現の道具とするため、私は大衆を熱狂させるのだ」アドルフ・ヒトラー

アンコールによりまた幕が上がる。草薙くんが一礼すると、一斉に手を振るファンの人たち。そして再び退場すると、また上の言葉が現れる。少し笑ってしまう。

ウイの派閥であることを示す赤いシャツを、まるでライブTシャツのように最前列の女性2人が着用していたのもとても興味深かった。

 

決して草薙くんファンの人を茶化してるわけじゃなくて(私だってライブTシャツをきて、みんなと同じ振りをして気持ち良くなった経験がある)、

ただ、「ウイとスマップ=2つのアイドルを背負う草彅剛」という二重構造は確実に生まれていた。

その構造のなかで、熱狂と少しのスリルによる集団操作は明らかに容易いことを、舞台と観客のインタラクションを通して証明していた。

「今も昔も、独裁者を誕生させるのはそのような「空気」を生み出す民衆の心なのではないかというブレヒトの警鐘が現代にも響いてくるようです。」という公式の文言は「まさに」という感じで、演劇を通して確実にひとつのリアルを浴びる貴重な体験となった。

 

もうひとつ。心に残ったセリフを。民衆を操作するのに必要なのは(みたいな主語だったと思うが)「きつい抱擁と、おだやかな暴力」だという。

まさにモラルハラスメントの典型的な説明だとも思い、正直この状況は独裁者とかじゃなくても、自覚的じゃなくても、陥りやすいことだと思っている。

こういった行為が、いかに人の心を支配するか、強い印象を与えるか。常に気をつけないといけない気がしている。

 

最後に劇中で「ウイ!」といういうたびに、豊崎愛生さんの声が脳内で響いていたことを告白したい。

f:id:cibotarian:20220101230802j:image

【ライブ】キングクリムゾンとカネコアヤノ

 

のライブに連日で行った。11月の終わり。

 

どうなんこの食い合わせ?とぎょっとする感じかと思っていたが、結構いい感じで相乗効果があった。唯一の共通点はMCが一切ないところだ。

 

クリムゾンは初めて2017年に行った時、静かに脳汁を出すおじさんを目の当たりにしてそれもひとつの興味深い体験だったが、今回は私もそんなメタは抜きにして脳汁を出した。裏で利用するために脳汁エキスを吸い取ってるんじゃないかというほど、各々から脳汁を出させる。途中催眠にかかったようにめちゃくちゃ眠くなんだけど、そのボヤーからカッと覚醒する瞬間があって、そのとき体の音吸収率が格段に上がる。音と肌が近くなる。ゲートの向こうで、多分これがキマる感じ。技巧的で計算された攻撃と余裕。マグマだけどひんやりと冷静な集中もある。男の血が騒ぐが躁ではない。最近怒りを沈めるときにクリムゾンを日常遣いしてる。

 

カネコ。インスタで、こんなあらゆる友だちが同じライブに行ってたことなかなかないかも。「現象をみまもる、という言葉がぴったり」としょうじさんと話した覚えがあるが、そんな感じ。2019年に見た時は、かみつきそうな、あと一歩で呪いになりそうなヒリヒリが生命感じたんだけど、そこからだいぶ印象がかわったものだ。祝日がベストソン。日常の体温から入ってからだをほぐしたあと、あーきないな!でグオーとなる。ヴァーン(再起動の音)と立ち上がる。現象でおわらず、最後ひらかれたのがアーケード。めでたい。

 

 

【まんが】「アンダーカレント」豊田徹也

◆アンダーカレント 豊田徹也

意識下で起こること、全然意味がわからないこと。日常は続いているなかで、その「暗流」(アンダーカレント)に突然足を踏み入れていることがある。突然理解が及ばなくなった隣人、自分が知らない自分、暴力、抑えきれぬ衝動.......そういった黒い影がひっそりと、そこに流れている。

 

とある銭湯のせわしない日常から始まるこの物語。銭湯にくる常連のお客さんや、受付のおばさんたちの会話から、どうやら主人公「かな」の夫が、夫婦が共同経営する銭湯から逃げ出したらしいことがわかる。いわゆる蒸発だ。が、お風呂とおしゃべりを楽しむお客さんの活気や、働くことに勤しむかなの姿からは、ものすごい悲壮感はあまり感じられず、エネルギーに満ちた日常という印象を受ける。(もちろん、かなはちょっと疲れているし、休憩中に流れるニュースも不穏なんだけど)

そこから一気に様子が転じるのが、店を閉じて、誰もいなくなった浴場をひとり掃除し終えた かな が、ふと浴槽の淵に座り、後ろからお湯のなかへ倒れ込むこのシーン(画像↓)。この銭湯の水面こそ、夢に登場する水面であり、幼い頃の記憶と強く関連した水面だ。「日常」→「アンダーカレント」への入り口。それは例えば、村上春樹の「井戸」を彷彿とさせる。

 

f:id:cibotarian:20200925000818j:plain

 

吹き出しと小さなコマ多くの擬音で構成されたここまでの「日常」シーンから、突然の大ゴマをゆったりと使う「アンダーカレント」への表現がとてもみごとで、この時点でもう漫画読みボルテージは最高潮に達する。カメラを意識すると、「めだか→俯瞰→水中のめだか→かなの目線→俯瞰→めだか」=「日常→アンダーカレント→日常」という流れが見事に表現されて、そのリズムの付け方と、これからの「物語の予感」の立ち上げ方に、唸りを上げる。かっこいい 涙

 

物語で登場する様々なアンダーカレントの多くは「消失」につながっている。人も、家も、服も消えた。消えてしまうと、暗がりに気づく。でもそれがどういう暗がりなのか、よくわからない。その深さや得体のしれなさに、人は混乱し、恐れる。それを確かめるために、何らかの手段で、アンダーカレントに近づいていく。

 

こう書くと、サスペンスっぽくなるんだけど、あまり深刻になりすぎないのが面白いところで、その要因として、漫画的要素が多く挙げられる。

画面は、基本的に映画みたいな静謐な感じだけど、擬音・擬態表現が古典漫画表現っぽくわざとらしいのが面白い。また、主人公をはじめとした若めの人物は7割シリアスな作画なんだけど(3割ギャグ漫画になる)、銭湯周辺の街のおじいちゃん・おばあちゃんはとにかく元気なギャグまんがのキャラみが強い、、(この人たちこそ、恐ろしい「アンダーカレント」たくさんみてきただろうにねー)セリフからも、漫画的ギャグやノリ、楽しさ=人物に対する愛みたいなのが随所にみえて、この辺が軽さをうま〜く生んでるのであります。

 

基本クールでかっこいい絵柄に、ひやりとする物語、そして時折かいまみえるキャラの愛くるしさのバランスがとてつもなく絶妙で、まるで「あまじょっぱさ」が職人芸な創作料理です(これは先日行ったお料理どころ「台形」と重ねてる部分になるのですが、これについてはまた別途、、)

 

絶版になってるの、本当に惜しいよー!各位、いつでもお貸しします。

【てんじ】ナビ派の思い出 〜「画家が見たこども展」@三菱一号美術館〜

ナビ派の思い出を語りつつ、先週の展示の振り返り。

 

まず、ヴュイヤール。あれは2015年のパリ旅行で、オルセー美術館にいったときのこと。初めてのパリでものすごい数の絵画との出会いがあったなかで、ヴュイヤールの「Au lit」との思い出は鮮明だ。

https://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/search/commentaire_id/au-lit-439.html?no_cache=1&S=1&cHash=aa58d6c0a1

とても落ち着いた色彩と、平面的な印象のなかに、手触りとあたたかみを感じるたっぷりとしたふとん。その輪郭をたどっていくと、間からポツンと覗くまどろみの表情の彼女。きもちよさそう......。ていうかきもちいい....。

絵画のなかの顔って、そこにまず目が行きがちなんだけど、まずその部屋(布団)を掴んでいってからお顔まで到達するという経験自体が、どこか謎解きをするようで、そのときは新鮮だったように思う。そして表情に目線が到達するとき、そのねむりの心地よさを脳に直接送り込まれたような気がしたんだ。

 

 

そして、ヴァロットンにもそこそこ思い入れがある。小さい頃 家族と一緒に、何かの展示でヴァロットンの「ボール」を見て、妹と母とその絵画のファンになった。ポストカードか何かを買った気がする。確かそのときは「ボールを追いかける女の子の後ろ姿がかわいい」と右下しか見てなかったけど。今では見える、動的な女の子と、静的な対岸の大人ふたり。一見平和でおだやかな風景に、どこか不可逆的で残酷にも見えな時間の流れを感じるのは、今回の展示で見た「公園、夕暮れ」もそうだな。

とちょっとノスタルジーっぽい気持ちになっていたら、今回の展示の、一連の「息づく街パリ」の風刺版画と、「エトルタの4人の海水浴客」の幅にどかんとやられてしまう。なんとなく頑とした雰囲気をイメージしてたけど、ユーモアや柔らかさをといった印象も一層増す。ヴァロットン、もっとほっていきたい気持ちが強くなった。

 

b8901c9cc5e7c771db3b5e7960b1f36c.jpg.jp2

◆「エトルタの4人の海水浴客」

 

f:id:cibotarian:20200628231357j:plain

◆無邪気な子供たちの集団...かと思いきや、その中心には警察と連行される大人。

 

展示では、19世紀末〜20世紀の都市生活におけるリアルな子どもを多く見られるなかで、当時の新たな技術である写真で撮影された子どもとの比較もおもしろい。ナビ派が「ポスト印象派」として、目に見えない部分を大事に描いていったなかで、子どもの静かな目の訴えとか、ふとした仕草とか、残酷さとか、エネルギーにあふれた様子が、今とも共通する紛れもない「子ども」で、逆に子どもってそうだったよな、と思い起こされる。あと、子どもってその場しか世界がないから、いるだけでもう空気が充満してる感覚、「ここにいる!」という感じも思い出した。

 

展示の最後、戦後のボナールの絵画は正直とてもおそろしかった。その章より前は、「目に見えないもの」も意識して描いていたけど、「目に見えるもの」の比重が重かった気がするんだ。最後の章に入って、これまでの作品と違う、一気にフィジカルがとんでしまった感じがしたのだ。それが、「雄牛と子ども」「サーカスの馬」。ふうせんになって、ふわっとどこかへ消えてしまいそうな怖さ。

 

【まんが】Tanoshi0329

 

◆「少年は荒野を目指す」吉野朔実

 

安易に既存の関係性に当てはめない、強靭なふたりのワールドに対して、子どものころから夢を見ているところがある、のですが。

 

他人からもそっくりとされる狩野と陸にまつわる、鮮やかすぎるストーリーテリング、むしろ綺麗すぎるくらい。

物語前半、狩野は自身の内なる不在の少年を辿りながら、ひた隠しにしてきた少女を発見するも、小説がかけなくなる(現実に身体を置けなくなる)。

物語後半、陸は自身のうちで不在へおしやっていた父の存在を認識しながら、自身の母(無償の愛を与えてくれる人)である鳥子が消えることで、他社への無関心の態度を壊される。

パズルのピースはそろい、お互いにとって完全な2人は、この世から逃亡を試みる。。。

 

描き方もこんな感じでかなりシンメトリーなんだけど、それぞれにとっての拠り所となる「楽園」の描き方もおもしろい。

たぶん、狩野にとっては日夏、陸とっては鳥子。

狩野は「楽園」を自ら否定して自発的に遠ざけようとするけど、陸は「楽園」が去るまで現実を直視できないのだ。

(母親から離れてくれる、都合のよい「親離れ」なんて現実ないと思うなーw

また、この日夏さんがすごいおいしいキャラ。自分の私利私欲のために動くようにみせながら(実際そうなんだろうけど)、

狩野と陸が、自分と向き合うきっかけを盛大に与えている。。この人がいないと物語が動かないよ、という。

 

狩野と陸が、自身のうちに押しやって、気づかないように、感じないようにしてきたものを乗り越えて

次の場所へとむかえるようになったとき、2人が交わす言葉は、どこか演劇的で、精神世界にいるみたいに見える。

いわゆる恋愛関係だったら、別れをこんな風に描けないだろう。

出会って自分が足から爪先まで入れ替わるような、人との別れ。

 

 

その他「カリフォルニア物語」でかわいいやんちゃな男の子にいやされ

バルパライソの長い坂を下る話」の戯曲で 南米と日本の島々、生きた骨と死んだ骨、海上で寝ることを想像し

禁じられた遊び」で「ミシェールミシェール」をやきつけられる。