ナビ派の思い出を語りつつ、先週の展示の振り返り。
まず、ヴュイヤール。あれは2015年のパリ旅行で、オルセー美術館にいったときのこと。初めてのパリでものすごい数の絵画との出会いがあったなかで、ヴュイヤールの「Au lit」との思い出は鮮明だ。
とても落ち着いた色彩と、平面的な印象のなかに、手触りとあたたかみを感じるたっぷりとしたふとん。その輪郭をたどっていくと、間からポツンと覗くまどろみの表情の彼女。きもちよさそう......。ていうかきもちいい....。
絵画のなかの顔って、そこにまず目が行きがちなんだけど、まずその部屋(布団)を掴んでいってからお顔まで到達するという経験自体が、どこか謎解きをするようで、そのときは新鮮だったように思う。そして表情に目線が到達するとき、そのねむりの心地よさを脳に直接送り込まれたような気がしたんだ。
そして、ヴァロットンにもそこそこ思い入れがある。小さい頃 家族と一緒に、何かの展示でヴァロットンの「ボール」を見て、妹と母とその絵画のファンになった。ポストカードか何かを買った気がする。確かそのときは「ボールを追いかける女の子の後ろ姿がかわいい」と右下しか見てなかったけど。今では見える、動的な女の子と、静的な対岸の大人ふたり。一見平和でおだやかな風景に、どこか不可逆的で残酷にも見えな時間の流れを感じるのは、今回の展示で見た「公園、夕暮れ」もそうだな。
とちょっとノスタルジーっぽい気持ちになっていたら、今回の展示の、一連の「息づく街パリ」の風刺版画と、「エトルタの4人の海水浴客」の幅にどかんとやられてしまう。なんとなく頑とした雰囲気をイメージしてたけど、ユーモアや柔らかさをといった印象も一層増す。ヴァロットン、もっとほっていきたい気持ちが強くなった。
◆「エトルタの4人の海水浴客」
◆無邪気な子供たちの集団...かと思いきや、その中心には警察と連行される大人。
展示では、19世紀末〜20世紀の都市生活におけるリアルな子どもを多く見られるなかで、当時の新たな技術である写真で撮影された子どもとの比較もおもしろい。ナビ派が「ポスト印象派」として、目に見えない部分を大事に描いていったなかで、子どもの静かな目の訴えとか、ふとした仕草とか、残酷さとか、エネルギーにあふれた様子が、今とも共通する紛れもない「子ども」で、逆に子どもってそうだったよな、と思い起こされる。あと、子どもってその場しか世界がないから、いるだけでもう空気が充満してる感覚、「ここにいる!」という感じも思い出した。
展示の最後、戦後のボナールの絵画は正直とてもおそろしかった。その章より前は、「目に見えないもの」も意識して描いていたけど、「目に見えるもの」の比重が重かった気がするんだ。最後の章に入って、これまでの作品と違う、一気にフィジカルがとんでしまった感じがしたのだ。それが、「雄牛と子ども」「サーカスの馬」。ふうせんになって、ふわっとどこかへ消えてしまいそうな怖さ。