tanOSHI

たのしい?

かくれた次元 エドワード・ホール

 

倉敷の蟲文庫での出会い。

今に残る1970年の名著らしいけど、そのオーラがあった。

 

「それぞれの文化における空間認識のあり方を,日常行動,居住空間,美術,文学などのうちに表現されたものを通して研究する」意味の造語である「プロクセミクス」を扱い、生物学的にも人文学的にも、遠くから(世界全体の視点)も、近くから(友人のふるまい)もアプローチしてくれる、人類学者・エドワードホールによる本。

人と人との距離感覚が規定化されたり変わってしまったりするコロナ時代と連関して、再注目される場面も少なくないようだ。

以下みすず書房HPから。


本書は、人間の生存やコミュニケーション・建築・都市計画といった今日的課項とふかく結びついている“空間”利用の視点から人間と文化のかくれた構造を捉え、大量のしかも急速に変化する情報を、ひとつの統合へと導く指標を提供するものである。

 

ホールは、二つのアプローチを試みる。一つは生物学的な面からである。視覚・聴覚・嗅覚・筋覚・温覚の空間に対する鋭敏な反応。混みあいのストレスから自殺的行為や共食いといった異常な行動にかられるシカやネズミの例をあげ、空間が生物にとっていかに重要な意味をもつかを示す。人間と他の動物との裂け目は、人びとの考えているほど大きくはない。われわれは、人間の人間たるところがその動物的本性に根ざしていることを忘れがちである。

 

もう一つは文化へのアプローチである。英米人・フランス人・ドイツ人・アラブ人・日本人などの、私的・公的な空間への知覚に関して多くの興味ぶかい観察を示し、体験の構造がそれぞれの文化にふかく型どられ、微妙に異なる意味をもつことを示す。それはまた疎外や誤解の源でもあるのだ。
このユニークな把握は、人間に人間を紹介しなおす大きな助けとなり、急速に自然にとってかわり新しい文化的次元を創り出しつつあるわれわれに、新鮮な刺激と示唆をあたえてやまない。

 

本書はとてつもなく広範に、空間における「かくれた次元」を語っているので、気になったところをちょこちょこと。

 

■生物学的なアプローチで驚いたのは、過密を意味する「混み合い」状態にネズミの集団が陥ったときも、過度なストレスを受けるということだ。

その具体的な結果が衝撃だった。

オスが攻撃的になり、性行為を強要したり、相手(老若男女)を選ばなくなったり、巣をつくる役割を持つメスがうまく働けなくなり赤ちゃんが死んでいったりするという。さらに驚いたのが、妊婦のメスネズミは夫じゃないオスのにおいを嗅いだだけで体調が悪くなるが、過密によりこれがよく起きるということ。

失礼だが、ネズミでさえこんなに繊細なんだ!

あと、人間はネズミほど嗅覚が発達してないけど、妊婦さん(女)はとてもデリケートで、かつ、空間的な守りがどれほど重要か想起させられた。

 

■人間はあらゆる感覚を使って空間/相手の感情を読み取っている。

・視覚体験の言語化がとても興味深い。網膜に写る像「visual field」と、人間が視るもの「visual world」は異なる。(by.ギブズン)

後者は、空間/筋覚など総合して構築する(騙し絵に気づく瞬間を思い出す)ので、

結局「視る」ことは「話す」こと同様に、脳みそ各部を駆使してやっと達成できる能動的な行いだ。

→ぼんやり思ってた下記2つのことを確信する。

①視ることについて、写真じゃなくて、現地にいったり実物と対峙したりすることがいかに大事か。

そのときにどんなvisual worldを自分のなかで立ち上げるかが、その人が視ることである。

②visual fieldでさえ人によって若干のちがいはあると思うので、visual worldが隣人と同じはずがない。

美術館で私語厳禁という場所が日本にはまだあるが、本当に信じられない。

もちろん美術をみたときのvisual worldをすべて言語化するなんて不可能だが、新しいものの見方のひとつである隣人のvisual worldを知るチャンスなのに、その機会を奪うほど愚かなことはあるのか。

 

・視覚についてもうひとつ。視野の中心の方が色彩感覚は強いが、端のほうが運動の知覚が誇張されるという。

→確かに、視野の外に思えても、誰かの視線がこちらに動くとすぐ気づくのはこの影響か。

 

・視覚は、これ以外にもギブソンの遠近感を導く諸要素など様々なアプローチから解説してくれているが、これと比べて、嗅覚については科学的なアプローチがまったく少ない。

特に西欧社会(≒日本社会)では、嗅覚の使用は、親密な人と関わるときに感じるものなどかなり限定されていて、「より呪術的なもの」みたいな言い方さえされちゃってる。

昨今のコロナ社会で一番奪われた感覚のひとつは嗅覚だと思い、ふとそれによって失われたことを考えると、季節の変化、雨やかぜのにおいなど、人ではなく環境・自然に関連するものばかり。

やはり社会的な対人場面ではほとんど嗅覚を使っていないなと実感する。

 

■私的/公的な空間(距離)

 

・「密接距離」(愛撫あるいは暴力など)、「個体距離」(個人を感じられる距離)、「社会距離」(ある程度離れてて隠れようと思えば隠れられる距離)、「公衆距離」(演説など)といったその状況に応じて、ある一定の距離があり、文化によってその距離感がだいぶかわる、というのは「だよね」という感じなんだけど。

肖像画をかく際に適した距離」があるというのに目から鱗だった。

4〜8フィートこそ、モデルの身体を理解するのに遠すぎず、遠近法的に位置づけるのに困難が生じない。

それでいてモデルと親密さと気楽さを共有しつつ、モデルの心が際立ちすぎない、というモーリスグローサーの1963年の言葉があるそうだ。

※彫刻を作るときはそれより近づく、というのも興味深い。触感を視る必要がある彫刻。

→芸術や文学においても「距離」は必ず意図を伴う。

肖像画はそれが一定とされるようだけど、それをおしたりひいたりずらしたりすることである種の感慨をもたらす芸術作品は、枚挙にいとまがない。

そういったすぐれた作品は、そのときの視覚だけでなく、筋覚や温覚を脳みそに思い起こさせ、それが感慨となって心に表れている気がする。

そしてその感慨(視覚や筋覚や温覚がフルに総合されたもの)って、日常の空間のなかでわたしたちが感じてることでもある。

 

・自分の部屋を持つこと持たないこと

古い本だし、本書の「ナントカ人あるある」は、人種のレッテル貼りにもなりかなねいから、「へー、そういうこともあるんだ」と話半分に聞いてるんだけど、それによると、幼少期自室をもたないイギリス人と、必ず自室を持つアメリカ人が対比されてる。自室をもたないイギリス人が自分一人の時間をもちたいときはどうするかというと「話しかけないで」オーラを出す一方、アメリカ人は自室へ帰るという。この違いにより、両者はお互いをどう解釈してよいかわからずしばしば摩擦がおきるとかなんとか。

 

それで自分のこれまでのことを考えてた。私は部屋を持たないで成長したので、これにそうとイギリス人タイプ。基本的にどこでも自分の仕事や勉強をできる。でも、一人になりたいときは、その場で悶々と「オーラを出す」よりかは、高円寺へいったり、マックや自習室へいってたなあ。家族は「距離の侵害」とかを考えないので、公共空間のほうがゾーニングしやすいのよね。それにずっと無自覚で過ごしてきたけど、仕事を始めて会社にデスクを持つようになったら、集中して机にむかう空間だからこそできることに気づいた。そこで、親が使わなくなった書斎を改造し、本棚をたて、そこに空間をもつことにした。その空間ができてから、変わったことがいくつもある。ただ、それをはじめた当初、自分がリビングにいるときと書斎にいるときで2つの人格を持っていることに気づいた。そして、もう少し同じ人格で生活したほうがいいんじゃないかと思い、自らを少しだがチューニングした自覚がある。

父親は逆に、書斎からリビングという家族的公共空間へ出ていった。仕事をしながら家庭のこともする事情がきっかけだと思うが、その2つの側面を同時に進めるのは、精神的なところで、その2つをなんらか近づけることが必要だったと思う。

 

そして現在は実家よりかなり小さい家で2人で過ごしていて、ほぼ完全リモートのため仕事/生活が同居しているが、ほとんど問題なく運用されている。また、部屋で区切れなくてもゾーニングのルールが様々ある。「お互い、仕事のときと違う椅子で夕飯を食べる」「片方が仕事してるときは昼食はガラスの低いテーブルで食べる」(食べることばっかりだな...)、「リラックスタイムには近づかない」など...。

 

こう振り返ると、自分の部屋を持つことで変わることは確実にあるのだが、今みたいにひとつの部屋のなかでも細かくゾーニングすれば混乱せず様々な事を運用できる。もちろん、それには同居人と共通認識があり、また、生活時間のルーティンが奇跡的に似通っているからだと思う。ゾーニング感覚と自分のチューニングは、本能的なところと結びついてるといっても過言でないけど、その点かなり気を使って生活を組み立てる自覚がある。

 

 

・文化的差異があるものを混ぜると破滅が起きる可能性があるらしい。

「混み合い」がおきているネズミの集団に、異種のネズミをまぜると一気にストレスがたまるらしい。これは人間も同じ。つまり。

「異なる文化を持つ人々が、狭い範囲のなかで集中して接触する危険性」は様々な意味で忘れたらいけないと思う。

最近やたらめったら「異文化交流」という言葉が叫ばれるが、これは自分の文化がいわゆる安全な場所にある(と思ってる)人しか言えない。

「違うこと」というのはそもそもめちゃくちゃストレスなんだ。

その人がほっとできる空間がなければ、「じゃあ自分と違うものをみてみよう」という気も起きない。

本書は、これが都市計画の話につながっていくが、いろんな単位・尺度で考えられるべきだと思う。