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たのしい?

「主戦場」ミキ・デザキ@吉祥寺UPLINK

吉祥寺アップリンクの青いトンネルを抜けながら、心がすっと落ち着いて、じわじわと頭のチャンネルが切り替わる。たいていはいつも、映画本編がはじまって導入の映像からアナログ式にゆっくりと映画世界へ入り込んでいくのだ、が、今回は違う。はじまるとすぐスイッチオン・Youtubeの再生スイッチを既に押したかのようにミキ・デザキのナレーションが流れ出す。


韓国における慰安婦問題について、さまざまな論客や関係者にインタビューするこの映画。あたかも彼ら同士がディベートする風な緊張感ある映像づくりと編集により映し出されるのは、右派、リベラルを超えた顔顔顔とその声。情報量と速いテンポ感により次々と展開されるこの映像を、単なる映像ではなく映画たらしめているのは彼らの表情だ。
慰安婦にまつわる議論の食い違いに注目し真相に迫るインタビューの流れは、デザキのスタンスを示すとともに、観客が最初から感情的にならないようにうまく仕掛けられている。しかし会場でも終盤になると、いくつかの発言には思わず苦笑いが漏れ聞こえてくる。実際、こんなふうに映画として編集されていなければ、こんなに落ちついた気持ちで彼らの言葉にゆっくりと耳を傾け、その表情を見つめることなんでできないだろう。貴重な経験だった。だって単純にその人たちの言葉の端に怒ることだけでは、もうつぎには繋がらないことは明白じゃないか。映画でもそう言ってる。


国際的報道では、第二次世界大戦にて日本が韓国で行ったことは「20万人の女性を強制的に性奴隷とした」ことがスタンダードである。それぞれの論客が、「奴隷」や「強制連行」という単語の解釈、「20万」という数字の根拠について各々意見を述べるシーンは核心をつく。「奴隷」状態とは、女を縄で縛って牢屋にぶちこむことではなく、女に休暇を与えたとしてもその自由意志を奪い精神的或いは肉体的に従属させることである(こう思うと奴隷状態とはすぐに起こりうることである)。「強制」連行というのは、無理矢理力づくによるものだけでなく、国際法上、詐欺や甘言も含む。さらに、「20万」という数字の根拠は不確かであるのに関わらず、人権団体などはその単純な数の多さから好んで用いるようだ。言葉も数字も、一人歩きさせればいくら主張してもそれだけで何の議論にもならない。たとえ意見の立場が違っても、こういった態度を同じようにとることが往々にしてある。言葉という事実そのものをこえた「態度」にその人の言いたいことがある。それは自分が言いたいことを通すための主張なのか? 何を見据えてその人は主張しているのか? これは逆も言える。何を知りたくて私はその人の言葉に耳を傾けるのだろうか?


「主戦場」の最後では、被害者の言葉で締められる。これまでニュースの点と点が、人物の表情を見せていくことで線になっていく映画だった。これからのニュースの点を結んでいくのに、確実に土台となるだろう。逆に言えば、これからのニュースの点を負わなければほとんど意味がない。
個人的に気になったのは、慰安婦像の問題だ。本編では、最後さらっと肯定されていたが、わたしには、慰安婦像には、何か英雄的記念碑像としての強さのような雰囲気を感じて違和感が少し残る。もちろん、慰安婦像によってその事実を周知し、考えることは大切だ。だけど、この違和感はなんだろう。卒論のマリノ・マリーニからもつながるだろう。このことを念頭に読書を進めたい。


最後に印象的だった当時日本兵であった松本さんの言葉を。
終戦までの日本は、女性の人権はなかった。おかしいと言われても事実そうだった。」(※原文ママではないと思います) 
対立的な議論が多く検証されてきたなかで、この言葉が飛び抜けて目立っていた。それまでの論客による議論があったから重みがあったとも言える。この発言は、日本を韓国と置き換えることもできる。東アジアにおける儒教的家父長制が今回の問題と深く関係することが本編でも示唆されているように。そしてきっと世界を見れば、アジアだけのお話じゃないだろう。当時、日本兵もそういう社会に生きていたし、女性もそういう社会に生きていた。問題は複雑だ。そして、わたしがこの社会に生きていることはやっぱり必然的ではないし、わたしの状態も必然ではない。だからこそ、ようやく色んなことが認められ始めた社会で生きるからには、やることはたくさんある。